起業編 第5話「密会(前編)」

美月林業の神崎健一人事部長による、山之辺伸弥の面接から1ヶ月後。

東京は、秋の気配が感じられる季節になっていた。

喧噪が埋め尽くす新宿歌舞伎町に建つビル。ここに押し寄せてくる外国人観光客や酔っ払いを寄せ付けないかのように、一見の客が入れない門構えを見せつける建物の奥。そこにあるエレベーターで、4階まで登ったところにある、料亭 薫林坊総本店。

株式会社バリューフェス取締役の阿部洋次は、その夜、同社営業システム部長・執行役員の水谷隼人を、この料亭に招いていた。

4階のエレベーターを降りると、下界の歌舞伎町の喧噪が嘘のように消え、琴の演奏曲が流れる静寂の空間が出現する。

阿部が予約した個室には、江戸時代を代表する名画家 谷文晁の掛け軸が床にかけられていた。

几帳面な水谷は、約束の15分前にここに到着し、株式会社バリューフェスの上席でもある阿部を、予約された部屋で、律義にお茶をすすりながら、待っていた。

約束の19時。

時間きっかりに、阿部は、中居に導かれ、水谷の控える部屋に到着した。

「水谷さん。ご多忙のところ、新宿まで呼び出してしまい、申し訳ない。」

阿部は、部屋を担当する、若い美貌の中居の女性に、料理をスタートするように促しながら、水谷の上座の席に座った。

「いえいえ。こんな立派な料亭にお招きいただき、誠に恐縮です。」
水谷は、丁重に阿部に礼を述べた。

株式会社バリューフェスは、その本社を表参道に構えている。社内の幹部の夜の会合は、渋谷か六本木で行われていた。阿部が新宿の、しかも、来客同志が顔をあわせない料亭を指定してきたのは、明らかに、役員間の「密会」で協議する用件を話したいに違いない、と、水谷は踏んでいた。

株式会社バリューフェスは、そのカリスマ的創業者である大井川秀樹が代表取締役として率いる一部上場企業である。

今、その役員の間での最も熱い関心事は、既に70歳を迎えた大井川秀樹の後継社長問題だった。

役員会の二大実力者は、取締役副社長の坂田将と、取締役の阿部洋次である。

この二人は、共に、バリューフェスの営業部門で、輝かしい実績をあげ、全国の支店長や支社長を歴任した後、本社の様々な部門の部長をえて取締役に立った、叩き上げの役員だった。大井川秀樹の両腕とも言われ、バリューフェスの隅々まで、精通しているだけでなく、大井川の経済界での活動や、株主対策・金融機関対策も担っていた。

株式会社バリューフェスは、他の上場企業と同様に、各業界の大企業や公的団体を経験した実力者を取締役や執行役員に招いていた。しかし、現場を最重視する大井川は、現場から叩き上げてきた坂田将副社長と、阿部洋次取締役を、両腕として優遇していた。

従って、大井川の後継者は、坂田か阿部のどちらかになるだろうというのが、株式会社バリューフェスを取り巻くステークホルダーの大方の見方だった。

問題は、そのどちらが、後継者かということだ。

阿部は、副社長の坂田よりも6歳年上だった。この二人の「因縁の関係」は、阿部は、坂田が大学卒業の新卒採用で、バリューフェスに入社してきたときの、直属の若き課長であったというところから始まっていた。

高卒で、バリューフェスに入社した阿部は、坂田が入社した段階での、社歴が9年。

阿部の入社当時、まだ中小のベンチャー企業だったバリューフェスで、阿部は入社から営業実績を積んだ。どぶ板営業をものともせず、数々の社内営業表彰を受けて、その年、営業課長に昇進した阿部の課に、大卒新入社員として坂田が入社したのだ。

はじまりは、阿部課長と新入社員坂田の関係だった。

坂田は、私立の名門大学である西北大学に、体育推薦で入学し、大学時代は、ラグビー部の主将を務めてきていた。その体格のよさと、押しの強さでは、同期の新入社員の中で、既に入社時から際立った存在だった。そんな坂田を、阿部は課長として、大きな期待をかけ、自ら、坂田をOJTで育てたのだった。

阿部が入社した頃の、中小のベンチャー企業に過ぎなかったバリューフェスが、営業マンとして採用できたのは、殆どが高卒者だった。しかし、急成長を遂げるバリューフェスに坂田が入社した段階では、バリューフェスの新卒者は、殆どが4年生大学卒業生になっていたのだ。

現場の営業マンだった頃には、学歴などを気にすることはなかった阿部も、課長になる頃から次第に、自ら、高卒であることに強い劣等感を抱きはじめていた。そんな阿部は、バリューフェスの激務の合間を縫って、企業の経営に関することをよく勉強していた。

一方、大学でラグビーに打ち込んでいた坂田は、経営学部出身でありながら、企業に関する勉強を、殆ど大学ではしてきていなかった。阿部は、そんな坂田に目をかけ、自ら、坂田に、実戦の中で、多くのことを部下として教え込んだ。

そんな阿部の、坂田への教育の成果もあり、坂田は、営業実績と能力で、バリューフェスでは抜きんでた評価を受けた。

日本企業を取り巻く時勢は、年功序列主義から、成果主義人事制度へ移行していた。バリューフェスも、若手の実力者を社歴にとらわれずに昇進させることに取り組んだ。

そんな時代背景の中で、坂田は、入社4年目にして、バリューフェスの営業課長に抜擢された。その時点で、社歴13年の営業課長の阿部と同格のポジションに、坂田は並んだのだ。

そして、このときから、非常に競争心の強い坂田と、元の部下の坂田を育ててここまでにしたという自負のある阿部は、因縁のライバル関係に立った。

2人は、競うように、バリューフェスの要職を歴任し、そして、大井川は、この二人の競争心を利用して、二人を上手く使いこなした。そして、二人は、同時に、一部上場企業になっていた、バリューフェスの取締役に就任したのだ。
しかし、取締役になってからの阿部は、次第に坂田に引き離されていった。

地方の公立高校出身に過ぎない阿部に対し、坂田は、私立大学の名門 西北大学の卒業でもあり、学歴に歴然とした差が開いていた。

大学時代からラグビー部を率いてきた、親分肌の坂田は、部下に対し、飴と鞭を巧みに使いこなして、組織を纏め上げ、実績を残すことに秀でていた。大手株主の上場企業や、銀行でも、内部にある西北大学の学閥の人脈を利用し、坂田は巧みに、バリーフェスの内外に、自分を支持する派閥を作りあげていった。

阿部も、決して無能な役員ではなかった。ただ、阿部は、自らの学歴のなさにコンプレックスを抱いているためか、組織の中の優れた人材に、抜擢を集中する傾向があった。20世紀のITの世界的な大手企業IGMから、水谷を引き抜いて、執行役員に据え、営業システム部を任せたのも、阿部だった。そのエリート偏重傾向と、ヒトを能力で図りがちな阿部には、社内でも敵が多かった。

この二人の関係が、よきライバルという次元を越えて「敵対関係」に至ったのは、坂田が、仕掛けた陰険な阿部潰しの事件がきっかけだった。

阿部は、大井川からのミッションを受けて、このころ、バリューフェスの100%子会社の人材会社である株式会社バリューフェス・キャリアの代表取締役に就任していた。

一方、坂田は、同じころ、バリューフェス本体の取締役人事戦略部長のポジションを兼任していた。

その年、この事件は起きた。

坂田の部下の人事課の課長が、新卒採用に関する歩留り率を読み違え、新卒採用者の給与予算を大幅に上回る人数を、新卒として採用してしまったのだ。

売上も、販管費も、兎に角、数字にめっぽう厳しい大井川は、これに激怒した。

坂田は、この部下の失態を補うため、取締役会の意見を裏側で纏め、その余剰人員を、阿部の率いる、子会社であるバリューフェス・キャリアに引き取らせ、人材派遣で他社に社員労働力を売るという事業を、バリューフェス・キャリアに押し付ける策を実行してのけた。

坂田は上場企業であるバリューフェスを守るため、阿部の率いる子会社に責任を押し付けた形となった。

阿部に反感を持つ役員も多かった。その役員会の無謀な決議にも、阿部は男らしく従った。

殆ど戦力にならない、新入社員を40名も親会社から引き取り、阿部は懸命に人材教育を進め、戦力にして人材派遣事業の商品として、バリューフェス・キャリアの売上げをあげることに取り組んだ。

しかし、そこに残ったのは、人件費を稼ぎ出せない新入社員が作った、惨憺たる赤字の決算だった。

阿部は、大井川からこの責任を問われた。

その結果、坂田が、副社長に昇進し、阿部は、平取締役のまま取り残されたのだった。

阿部は、このときに至って、はじめて、自分が新入社員の時から育てた坂田の権謀術策に嵌ったことを悟ったのだった。

これが、バリューフェスの役員クラスであれば、誰もが知る、坂田と阿部の関係だった。

その劣勢の阿部にIGMから引き抜かれ、数少ない阿部派の執行役員である水谷は、阿部を前に、久保田酒造の萬壽を傾けながら、そんな、坂田と阿部の関係の経緯を想い起こしていた。

そして、静かに、阿部の世間話を聞き流しながら、今日の本題の話を、阿部が切り出してくるのを待った。


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