起業編 第7話「Departures」

株式会社バリューフェス・キャリアの社長室。

阿部洋次社長は窓際に立ち、そこから遠景に見える、新宿の高層ビル群を睨みつけていた。

渋谷から観る新宿の高層ビル群は、西側から、暮れかかった日の光を浴びていた。

別室には、来社した山之辺伸弥を待たせてある。

阿部洋次が、山之辺伸弥を営業担当の人材として紹介した、住宅メーカー大手の美月林業からは、山之辺を本人の希望通りの年俸で、現場営業職として、何としても採用したいという打診が、阿部に来ていた。

仮に、山之辺が、数千万円の年俸を提示し、阿部がバリューフェス・キャリアの紹介報酬を、その年俸の40%という、人材紹介手数料相場の最高率で交渉したとしても、美月林業は、喜んでその条件を呑むだろう。

しかし、阿部は、山之辺を美月林業に渡すつもりはなかった。

これから自分が株式会社バリューフェスで手掛ける新事業。その中核的な戦力として山之辺を獲得し、山之辺を外資系コンピューターハード業界の最大手 IGM出身の水谷の下につけ、海外進出を専門とする経営コンサルタントに磨き上げる。

そして、株式会社バリューフェスの創業者にして最大株主である大井川秀樹の一人息子、茂の先輩として、茂の育成にあたらせる。そして、茂を将来のバリューフェスの代表に育て上げ、自ら、茂を支え、バリューフェスを動かす。これが、阿部の描く構想であった。

既に、大井川には、山之辺の情報を詳細に伝え、そのプランの内諾を受けていた。大井川は、息子である茂が現在勤める企業から、茂をバリューフェスに移す段取りを進めていた。

計画は、いまだに、バリューフェスの取締役会の議事にはのっていなかったが、新規事業案件としては確実に水面下で動き始めている。

しかし、ここに、阿部が越えなければならない問題があった。

山之辺に対する、株式会社バリューフェスの採用条件だ。

一部上場企業とはいえ、株式会社バリューフェスは、いまだ、ベンチャーの域を出ていない。売上高は、ようやく400億円に到達したばかりの企業であった。

財閥系グループに属する、売上高が兆円単位の美月林業とは、売上高も純資産規模も全く対抗できなかった。

しかも、バリューフェスと同業の通信機器販売会社は、どこも、経済界では給与水準の低いことで有名である。今回、大井川を説得し、取締役である阿部が人事部門を直接説得しても、山之辺の年俸として提示できる条件の上限は、800万円までであった。

山之辺が、年俸の高さや会社の大きさで次の職を選ぶとすれば、バリューフェスは美月林業に、全くかなわないことは明白だった。

しかし、それでも阿部には、勝算があった。

もし、山之辺が年収や会社の大きさを重視する人物であれば、そもそも、住宅業界最大手の積山ホームを退職するはずがない。

積山ホームでの、山之辺の業績と、山之辺の頭脳があれば、山之辺は、そのまま積山ホームで間違いなく、しかるべき地位と年収が望めたはずなのだ。

山之辺ほどの戦略的発想をする人物であれば、日本の転職が、年収とキャリアではマイナスに働くことぐらい、百も承知だったろう。

転職で年俸をあげていくアメリカのビジネス界と違い、日本の企業社会では、転職は、年収的に不利に働くことが圧倒的に多いのが現実だ。

それでもあえて、山之辺が積山ホームという名門住宅メーカーを辞めて転職に踏み切った本当の理由を、これまで山之辺は、一切、語ろうとしなかった。

そこがポイントだと阿部は読んでいた。

その山之辺の転職を選択した本当の狙いに対するソリューションを阿部が準備する。そのうえで、これからバリューフェスが山之辺に与える、グローバルステージと、コンサルタントというキャリアパスを示せば、山之辺は、住宅の営業という、これまでの得意分野を捨てて、新たな挑戦を求め、阿部のもとに来るに違いない。

阿部は、こう計算していた。

そして、通信業界で、「エスキモーにすら冷蔵庫を売る」と言われた凄腕営業マンであった阿部は、山之辺を観察しながら、山之辺が転職に求めたソリューションを、凡そは目星をつけていた。山之辺が、阿部が読んだ通りの人物であれば、年収が下がっても、山之辺は、阿部のところに来るはずだった。

阿部は自分の読みに狂いがないかどうか、もう一度、ストーリーを反芻しているのだった。

自分なら、必ず、山之辺を落とせる・・・。

阿部は、自らの心に成功の暗示をかけ、ゆっくりと、自分の机に向き直ると、机の上にあるビジネスホンの受話器をとった。

そして、部下であり、阿部の秘書役の溝口香里に、山之辺を社長室に案内するように指示を出した。

渋谷から見た新宿方面の景色

山之辺伸弥が、社長室に入ってから、2時間が経過した。

溝口香里は、自分の腕時計で、それを確認すると、給湯室へ行き、淹れなおしたコーヒーのカップをお盆に乗せて、社長室へ向かった。

山之辺が社長室に入るときに淹れたコーヒーは、もうなくなっているだろう。

社長室のドアをノックし、溝口香里が社長室に入る。

ちょうど、その時、阿部が、いつにない笑顔で、大きな笑い声をあげて話しているところだった。

阿部は、非常に上機嫌だった。話は、阿部の描いたストーリー通りに進んだのだと、溝口は推測した。

溝口香里がコーヒーカップを、山之辺と阿部の前に置くのも待たずに、阿部は、溝口にこう言った。

「溝口さん。ちょうど、よいところだった。
今、呼ぼうと思っていたところ。

ちょっと、あなたも、ここに座って。」

溝口が、手帳を持たずに社長室に入って来たことに躊躇するのも構わずに、阿部は溝口をソファーの山之辺の隣に座らせた。

「溝口さん。山之辺くんがね。バリューフェスに来てくれることになった。

それでね。

申し訳ないが、これから美月林業の神崎さんに電話してね。

山之辺君が、誠に残念ですが、他の企業に就職が決まってしまいましたと、報告してほしい。

本当に申し訳なさそうに、電話してよ。嬉しそうな声だしちゃ、駄目。本当に残念です、という話し方をしてね。」

面食らっている溝口の顔と、嬉しそうに話す阿部の顔を見比べて、山之辺は面白そうに笑っている。

「それから、もう一つ。

銀座の鳥金に電話してね。今夜の席の予約をして。

今から、すぐにタクシーに乗って銀座に向かうから、到着する時間をみて、予約してほしい。ちょっと、後で、もうお一方、合流する人がいるから、3名で予約をしてほしい。

今夜、山之辺くんの、就職祝いをやることにしたんだ。よろしくね。」

そして、饒舌になっている阿部は、更に機関銃のように、溝口に続けた。

「それからね、溝口さん。
あなたに、はじめて言うんだが。

あなたにね。うちのバリューフェス・キャリアから、親会社のバリューフェスに転属してもらうことになる。

勿論、心配ないよ。僕が責任者の部門への転属だから。

親会社への転属だから、給与も少しはあげてあげられると思う。

それでね。そこで、山之辺くんと一緒に働いてもらうことになった。

二人とも、よろしくね。」

次々と、捲し立てられて、面食らっている溝口に、山之辺は、席を立って、挨拶した。

「どうぞ、よろしくお願いいたします。
バリューフェスさんのことは、全くわからないので、色々と教えてください。」

溝口は、慌てて立ち上がり、こちらこそ、よろしくお願いします、と挨拶を辛うじて返した。

溝口が社長室を出ると、すぐに、阿部は山之辺を連れて、社長室を出て、社長室を施錠し、そのまま外出した。

バリューフェスグループが使用するグループウエアーの、サイボーズの予定表には、「山之辺さん 直帰」と予定が書きこまれていた。

溝口香里は、自分の机に戻り、阿部の予定を確認すると、阿部からの指示通り、美月林業に電話をするため、神崎取締役の名刺を人脈管理システムから探しはじめた。

「転属かあ」

溝口は、自分のオフィスを見回した。

溝口香里は、阿部に部下として、可愛がられていた。通常の自分の仕事に加えて、阿部の秘書役として、阿部のバリューフェス・キャリアの社長の業務を支えていた。

私が転属ということは、阿部社長自身も、バリューフェス・キャリアの社長を退任し、親会社のバリューフェスで、別の事業に取り掛かるに違いない・・・。

溝口は、そう推察した。

「早めに、机の中の整理をしておいたほうがよさそうね。」

オフィスに流れる有線放送から、GlobeのDeparturesが流れていた。

溝口が小学校に入学する年に流行った懐かしい曲だった。子供のころから大人びていた溝口は、歌詞の意味もわからずに、この曲をよく聴いていた。

阿部洋次、山之辺伸弥、そして、溝口香里。

それぞれの、新しい出発が決まったことを、この曲がオフィスに告げているように、溝口香里には思えた。


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