起業編 第9話「副業の構想」

料亭「鳥金」は、名古屋コーチンの名店として、名古屋の錦に本店と料亭店舗を構える老舗だ。

その東京銀座店に、阿部洋次は、山之辺伸弥を伴って入った。

「ここの名古屋コーチンの鍋は、最高に美味いんだよ。僕は、名古屋支社の支社長を3年間、やっていたんだ。ここの、味噌味の鍋が、たまらなく好きでね。名古屋赴任中、よく単身で、ここの本店カウンターに座り込んで、この鍋をつついていたもんです。」

阿部は、席に着く前に、山之辺にそう語った。

半個室の席には、来客の用意が3名分、整っている。阿部と山之辺の2人は、席に座ると、阿部のお勧めの鍋を始めずに、名古屋コーチンの刺身を肴に、獺祭の冷酒で、まずは乾杯した。

山之辺の、冷酒の盃を空ける呑みっぷりをみて、阿部は感心した。

「山之辺さん、相当いける口だね。
呑みっぷりがいい。多分、僕が、あなたと同じように付き合って呑んでいたら、1時間でダウンしちゃう。」

山之辺は、その後も、盃をあける速さに全く変わる様子がない。

盃を重ねて、二人の雰囲気は、面談のときの固さが少し和らいできた。

山之辺は、自分のこれまでの営業の仕事について、阿部に語っていた。

「建設の営業というのは、ご想像通り、とても酒の席が多いんです。私は、住宅メーカーでしたから、ゼネコンの営業のような過剰な接待はありませんでしたが。

ただ、協力会を構成する下請の建設会社の社長との調整事や、お客様である土地資産家の方の有効活用の営業など、酒の席を仕事の場にすることは多かったのです。

それに上棟式では、お客様の代わりに、現場の職人さんたちに気持ちよくなっていただき、スムースに仕事を進める段取りをするんです。

普通、積山ホームのようなプレハブ建築の住宅メーカーでは、棟上げという日本の在来工法特有の作業がないため、上棟式は行わないのですが、私は、お客様にあえてお願いして、やっていただきました。

現場の職人さんたちは、結構、上棟式を楽しみにしているんです。職人さんたちに気持ちよく仕事をスタートさせると、細かいところで、仕事の納まりが変わってくるのです。」

阿部は、既に少し赤くなりかけた目をしながら、言った。

「美月林業の神崎さんも言っていたが、あなたほどの営業実績をあげているにも関わらず、受注後のお客様にまで細心の配慮を払うということは、なかなかできることじゃないよね。

通信機器の業界の営業マンなんて、販売したコピー機を契約したお客の名刺の整理すらしない奴が多いんだからね。

リース会社の力で営業をしているだけで、これを自分の営業力と勘違いしてしまう輩が多い。だから、転職をすると、まったく通用しないんだよ、他の業界の営業では、ね。」

副業の構想 日本酒で乾杯

こう話しながら、上座に座っている阿部の目が、ふいに、店の入り口に釘付けになった。

店の中の、男性客の視線も、阿部と同様、入り口に一斉に注がれていた。

店の女将が、有名人でも来店したかのように、入り口から入ってきた和服の女性に丁寧な挨拶をしている。

「姉貴!ここ、ここ!」

山之辺は、その女性に向かって手を振った。

「え!あの方が、今日、お越しになると言っていた、山之辺さんのお姉さん?

うわ!
流石、銀座の高級クラブのホステスさんだな。

そこいらのキャバクラのホステスとは、貫禄が違う。どこかの、有名女優さんかと思った。」

女性は、山之辺を見つけると、阿部の席にやってきた。秋の七草をあしらった着物に、源氏物語絵巻が描かれた西陣織の帯を纏っている、女性は、銀座の並木通りの夜の高貴な香りを、店の中に振りまいている。

店の女将も、銀座の超一流クラブのホステスは、上客を多数連れてくる、上得意客らしい。女性に満面の笑みを浮かべて、席に案内をしてきた。

「弟が、これからお世話になるとお聴きしました。姉の、優紀でございます。と、申しましても、優紀というのは、銀座の源氏名でございますが。」

彼女は、席に案内されると、阿部に丁重に挨拶し、阿部と名刺を交換した。

会員制クラブ エルドラド
山之辺 優紀

和紙製の名刺には、こう書かれてある。

優紀が山之辺伸弥の隣に座り、鍋が運ばれてきた。その鍋を女将が作るのをみながら、山之辺伸弥は、阿部に、優紀と自分の、これまで、人生の経緯を話し始めた。

山之辺が、阿部に面談の時に相談した、「副業」の話。これを、阿部に詳しく話をするため、山之辺伸弥は、自分の姉の優紀をこの席に呼んだのである。

優紀と、山之辺伸弥は、7つ違いの姉弟だった。山之辺が、私立の名門大学である中明大学の法学部に入学した直後、山之辺の両親は、突然の交通事故で他界した。

雑誌のファッションモデルをしていた優紀は、
弟の学費を負担して、大学を卒業させるため、モデルの仕事を辞めて、銀座の高級クラブのホステスとなり、弟を大学から卒業させた。

山之辺は、もともと、中明大学在学中から、司法試験合格を目指し、法科大学院に進学することを目指して勉強をしていた。しかし、両親の突然の他界で、その夢は失せたのだった。

山之辺伸弥は、新卒の就職先で、営業コミッションが入り、実力次第で高収入を望める建設業界の積山ホームを就職先に選び、その後数年間、営業実績を積み重ねた。

一方、30歳を超えて、ファッションモデルとして活躍していた、その美しさに、妖艶な女の魅力を加えた優紀も、銀座の高級クラブを何店舗か経験し、今では、銀座並木通りの名門クラブが入る、通称「ウオータービル」のワンフロアーに店を出す、会員制高級クラブ エルドラドの、ナンバーワン・ホステスにのし上がっていた。

会社の接待交際費を湯水のように使える企業幹部や、成功した自営業者、医者や弁護士など。多数の上客を持つ優紀も、30歳という節目を超え、ホステスとしての道の行く末を、考えねばならない歳に来ていた。

永久指名制の銀座のクラブでは、若いホステスに客をとられるということはない。

しかし、一席当たり一晩で30万円から50万円の費用がかかる銀座の高級クラブには、勿論、「一見の客」など入れるはずはない。

優紀も、不況の度に客を減らしていることは事実だった。そして、新たな客の獲得には、若いホステスが有利だった。

既に、弟の伸弥は、優紀の経済的な保護を必要としていなかった。むしろ、伸弥は、自分の大学を卒業させるために、ファッションモデルという華麗な職を捨てて、水商売に入った姉を、今度は、自分の経済力で支援しなければならないと思っていたのだ。

積山ホームを退職し、時間に余裕のできた山之辺伸弥は、姉と、姉の将来のことについて話し合ったのだ。

優紀には、話をすれば、資金を出してくれる何人かの有力な上客がいた。はじめ、これらのパトロンを利用して、優紀は、この銀座に小料理屋を出したいと、伸弥に打ち明けた。

確かに、優紀は、昔から、母親の影響で、非常に料理が得意だった。その料理は、かなり本格的で、家庭料理という領域を遥かに超えていた。

一定の期間、プロの料理人のもとで修行をすれば、小料理屋の厨房を自分で仕切ることはできるだろう。優紀が自分で調理をし、お客をもてなせば、人件費も圧縮され、経営的には有利だろう。

しかし、伸弥は、その姉の資金の調達に異論を唱えた。

「特定の客に、資金提供を受けるべきではないと俺は思う。このような金主の男は、必ず、
店に入り浸り、オーナー風を吹かせ始める。

他の客が来なくなり、店は駄目になる。

料理の美味い店はいくらでもあるが、姉貴が、自分の力で経営をしている店で、雰囲気がよく、しかも料理がおいしければ、客は、着くだろう。だから、資金は、姉貴自身が調達すべきだ。足りない分は、俺が出し、銀行から俺が保証人になって調達する。俺が、次の仕事をしながら、副業的に姉貴の店の経営を手伝う。
だから、俺と一緒にやろう。

弟と一緒にやっていると言えば、多くの姉貴の男性のお客は、店に来て応援してくれる。そのほうが、絶対に特定の男性から資金を出してもらうよりも得策だ。」

こうして、優紀は、弟である伸弥の支援を受けながら、二人で、小さな小料理屋を出店することにしたというわけだ。山之辺が、阿部に話した副業というのは、この店を、姉を支援して、経営することだった。

山之辺伸弥は、この話の経緯を阿部に話した。

「成るほど。そういうことだったのか。
分かった。とても、素晴らしい話じゃないか。

勤務時間以外の活動であれば、勿論、バリューフェスとしては、その副業、承認する。僕に任せてくれ。

僕だって、ほんの少しは交際費を使える立場だ。出来る限り、応援もさせていただきますよ。」

阿部は、力強く請け負った。

「山之辺くん。これは、凄い店だな。さすがに、銀座の最高級クラブだ。バリューフェスの役員が、大井川社長に連れて行っていただく店なんかとは、格違いだ。」

阿部は、二次会で山之辺が案内した、エルドラドの店内を見回して、溜息をついた。

その阿部の心配そうな顔を見て、山之辺は言った。
「阿部社長、ご心配なく。
この店は、姉貴が私の就職祝いということで、今日は、姉貴の奢りです。

ただ、阿部社長が、お気に入りの女の子ができて、次に私に内緒で店に来るとすると、一晩で50万円は請求されます。必ず、限度額なしのゴールド以上のクレジットカードを持ってきてくださいね。」

阿部は、肩を竦めた。
「くわばら、くわばら。」

店は、色とりどりの大胆なドレスを纏った女性たちが、闊歩している。

「山之辺さん!いらっしゃいませ!」

年のころ、20歳を少し超えたと思われる女性が、山之辺の名前を呼んで、山之辺の隣に座り、山之辺にもたれかかり、山之辺の手を握った。

「奈美。今、俺は、失業中だぜ。そうそう、紹介する。今日、ようやく、その失業から脱却することになってね。

こちら、今後の上司の阿部さん。」

「ああ、よろしく、ね。阿部さんね?」

阿部は、既に、自分の両脇に座った美女たちを見回し、鼻の下を伸ばしてしまっている。

山之辺は、隣の奈美の耳に口を寄せた。

「奈美。

姉貴と経営する小料理屋。いよいよ、資金の調達に入る。資金のめどがつけば、姉貴は、ここを辞めて料理の修行に入る。俺は、店を探し、店舗を建築する。

奈美。君も、本当に、ホステスを辞めて、姉貴の料理屋で働くのか?」

奈美は、阿部の隣で、嬌声をあげる二人のホステスたちとは、全く別の表情で、今度は、山之辺の耳に自分の口を寄せた。

「山之辺さん。あたしはね、あなたのお姉さんの優紀さんに、ここまで育ててもらったの。

優紀さんの、お客様を預かり,優紀さんに成績を稼がせてもらってきた。私みたいな、中途半端な女が銀座のエルドラドで、一人で、のし上がるなんて、とても無理。これまで、優紀さんがいたからやってこれたんだよ。
だから、優紀さんが辞めたこの店に、いる気、ないの。

それに、山之辺さんが優紀さんと一緒に事業をするなら、私、優紀さんと山之辺さんについていく。

勿論、優紀さんみたいに、料理上手くないけど。

だけど、男の接客なら任せて。どんどん、呑ませて、たっぷり、売上あげる自信あるから。」

山之辺は、笑った。

「おいおい。健全な小料理屋なんだぜ。
奈美ちゃんの、コミッションを稼ぐ、ぼったくりバーになっちゃいそうだな。」

優紀は、奈美を連れて、このエルドラドから退職し、小料理屋を奈美に手伝わせて銀座に開業する、というのが、山之辺と優紀が建てた、事業の人員計画だった。

優紀の着替えも終わり、優紀が席につく。
華やかなドレスを纏った女たちの中でも、和服の優紀の美しさが、ひときわ輝いた。

「あらあら。奈美ちゃんと、伸弥。こんな早い時間から、そんなにべったりしちゃって。」

優紀は、山之辺にくっついて離れない奈美を見て、笑っている。

優紀がついたことで、席には、ドンペリの赤が運ばれてきた。

乾杯の掛け声を、もう、顔を真っ赤にしている阿部が発すると、席は、女たちの香りと嬌声に満ちていった。


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